大判例

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東京高等裁判所 平成4年(ネ)571号 判決

控訴人

柊揮七

外一名

右両名訴訟代理人弁護士

早崎卓三

被控訴人

株式会社杏林製薬

右代表者代表取締役

萩原秀

右訴訟代理人弁護士

井出正光

主文

本件控訴をいずれも棄却する

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

一  控訴人らは、「原判決を取り消す。被控訴人は控訴人らに対し、それぞれ、一〇〇〇万円及びこれに対する昭和六二年六月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。この判決は仮に執行することができる。」との判決を求め、被控訴人は、主文同旨の判決を求めた。

二  当事者双方の主張は、以下に付加するほか、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。

(控訴人ら)

被控訴人の作成した塩酸テトラカイン(商品名「テトカイン」、以下「テトカイン」という。)の添付文書における使用上の注意に関する記載は不適切であり、医薬品の販売業者に課せられたところのテトカイン使用についての注意、警告、指示をなすべき注意義務に違反しているものである。

1  薬品製造販売業者としての注意義務

被控訴人は、テトカインの製造販売をなすに当たって、その時々の最高の医学、薬学等の学問、技術水準に依拠して、本件医薬品の最終使用者である医師に対し、その本来の使用目的(妥当な麻酔効果)以外の働き、作用による危険を未然に防止できるように配慮しなければならない注意義務がある。具体的には、被控訴人は、テトカインはもとより同種作用を有する他の局所麻酔剤に関する医学、薬学その他関連科学分野における内外文献、報告の資料を調査して、副作用情報並びにテトカインに関するその他の情報を常時収集、検討するよう務めなければならず、販売開始後に当初知らされていなかった副作用情報及びテトカイン並びにその他の局所麻酔剤に関する重要な知見を入手したときは、副作用並びに麻酔事故の発生を回避または減少させるため、可能な限りの措置を講ずべき義務を負う。そして、右の措置には、添付文書の記載訂正と使用上の注意義務の警告の追加、医師に対する直接の文書による使用上の注意、警告の通報義務等が含まれる。

2  被控訴人には、次にみるように注意義務違反がある。

(一) 添付文書の不適切、不正確な記載

(ア 脊椎麻酔の危険性)

脊椎麻酔中の事故特に脊麻死が多発していることについては、その症例、件数が報告され、予想外に高率の死亡事故発生率が明らかにされており、その危険性については、かなり以前から医学部の文献等で指摘されていた。

(イ 脊椎麻酔における固定時間の重要性)

脊椎麻酔を行う医師は、脊椎麻酔薬を注入した後、麻酔高を頻繁に観察し、それを麻酔レベルが固定するまで継続しなければならない義務がある。ここでは、麻酔レベルが固定するまでの時間(脊椎麻酔薬を注入したのち、麻酔のレベルが次第に高位に広がり、最終的に麻酔レベルがさらに上昇するリスクはないかと考えられている時間)が重要であるとされているため、右脊椎麻酔の固定時間に関する記載は、極めて正確、適切なものでなければならない。したがって、脊椎麻酔の固定時間を添付文書に記載するのであれば、それは最新の情報、知見に基づく正確、適切な内容でなければならず、これについて不正確ないし不適切な記事をすれば、医師に不正確な情報を与え、ひいては当該添付文書上の固定時間を容易に誤信させ、これに基づいて、現実には麻酔レベルが上昇し続け固定していないのに、既に固定していたものと誤信して手術を開始し、その後に高位の脊椎麻酔となって重大な事故を招来する危険性が極めて高いものである。

(ウ テトカインの固定時間に関する最新の情報、知見)

①一九八三年にアメリカの麻酔学専門誌(Aneth Anag)に発表されたアームストロングらの報告(〈書証番号略〉)によれば、テトカインの麻酔レベルが固定するのに要する時間は、一〇分前後という短時間ではなく、二〇分以上を要する(テトカイン単独、の場合で23.5分プラス・マイナス2.7分でその平均値は23.5分である。)ことが明らかにされている。②原審鑑定人小川龍は、一九八五年に前掲①同誌に発表されたグリーンの報告を引用して、テトカインの麻酔範囲が固定するまでに三〇分以上かかることが推論できると述べている。③当審における証人小川龍の証言によれば、テトカインの固定は、大体二〇分から三〇分と考えておりこれが定説であり、横山和子教授の著書「脊椎麻酔」においても同じ記載があると述べている。

以上にみたようにテトカインの固定時間に対する最新の知見からすれば、アームストロングらの論文の発表された一九八三年までには、もしくは遅くともグリーンの報告(〈書証番号略〉)が発表された一九八五年までには、テトカインの固定時間は二〇分から三〇分であるという知見が我が国においても固定し、定説となっていたことが認められる。

(エ 被控訴人添付文書上のテトカインの固定時間に関する不実記載)

被控訴人はテトカインの添付文書(〈書証番号略〉)上に「麻酔固定時間は一〇分前後」と記載している。被控訴人は右根拠として、一九六〇年の文献を引用している(〈書証番号略〉の添付文書裏面に掲記の主要文献1)が、右文献は、被控訴人が本件局所麻酔剤を我が国で発売するために臨床試験したときの文献であり、その後前記報告が発表されて、テトカインの固定時間に関する最新の知見を熟知していたにもかかわらず、もしくは、少なくともこれら情報、知見を収集すべき義務があったにもかかわらず、約三〇年間にもわたって漫然と麻酔剤固定時間の記載を修正変更することを怠ったものである。

(オ 被控訴人のなすべき措置)

被控訴人としては、もし、添付文書にテトカインの麻酔固定時間を一〇分前後と記載すれば、これを見た医師が一〇分前後で麻酔のレベルが固定するものとして手術を開始するであろうこと、しかし、テトカインの固定時間に関する最新の知見では、二〇分以上三〇分が固定時間であるため、手術開始後も麻酔レベルが上昇し続けて、高位脊麻を誘発し麻酔事故、特に脊麻死を発生させること(なお、手術開始後は皮膚を消毒し、被布で覆うので、麻酔範囲は確認できない。)の危険性の予見が可能であった一九八五年以降、テトカインについて、その添付文書上の麻酔固定時間に関する記載を二〇分以上三〇分以内と修正変更し、かつ、麻酔レベルが固定するまで、頻回に麻酔範囲高を確認し、麻酔レベルの固定を確認してから手術を開始すべきことを注意、警告すべき義務がある。けだし、一般外科臨床医(大学病院、国公立病院等を除く。)の麻酔に関する専門知識は必ずしも高度なものではなく、添付文書の記載を信用し、これに基づいて行動することは、被控訴人としては当然予見できることである。

そうすると、被控訴人には、前記テトカインの添付文書における麻酔固定時間の記載を修正、変更し、かつ、指示、警告をなすべき義務があるのに、これを尽くさなかったものである。

(二) テトカインを未成年者に使用するに際しての指示警告の欠如

(a 一五才以下の未成年の脊椎麻酔事故の多発)

①昭和五二年一〇月の外科学会総会における日下部病院の日下部医師及び東京逓信病院の北原医師らの報告(〈書証番号略〉)によれば、成長期(中高校生)の患者に脊椎麻酔を施行する際には、成人に比し麻酔範囲が高位に及ぶことが明らかになったことを報じるとともに、それ故、「成長期の患者に脊椎麻酔を施行する際は、成人に比し麻酔範囲が高位に及ぶことを念頭におき、注入薬液量を少なくし、注入後も麻痺度を頻繁にチェックし、呼吸の状態を観察し、万が一に備えて呼吸麻痺対策を講じておくことが肝要である。」と警告している。②「脊椎麻酔中の事故、特に脊麻死をめぐって」の座談会における北原医師の発言によれば、脊椎麻酔中の事故は未成年特に一五才以下の少年少女に多発している原因について考察し、「薬液注入後時間を経過してから起こる事故の多いこと」「成長中の人には薬液量を減らす」ことの二点を注意警告している(〈書証番号略〉)。③一九九〇年の第一一回日本臨床麻酔学会における田中亮麻酔学会会長の報告(〈書証番号略〉)によれば、脊麻中のショック状態や心停止を起こした三三症例中すべてが未成年者で、うち二六症例(七八パーセント)が一五才以下の少年少女であったことを報じるとともに、「未成年者には脊椎麻酔は禁忌ではないが、あまり行わないこと」と警告している。また、右報告中では、「これと同じようなことは日本医師学会雑誌に掲載されたデータでも脊椎麻酔事故例二一例中一五例が一五才以下の者であることが示されている。」と述べられている。

以上にみた報告による症例は、かなり以前のものであり、薬品製造販売会社たる被控訴人としては、当然、このような脊椎麻酔中の重大事故の情報を収集しており、これを分析して同一結論に到達することが可能であったはずである。

(b 脊椎麻酔事故が薬液注入後二〇分経過してから多発していること)

①前掲座談会における北原医師の発言によれば、某地区における脊椎麻酔事故発見時間表を掲げ、二〇分から三〇分の間にピークがあり、二〇分以前の事故はわずか二五パーセントに過ぎないと報告するとともに、以前は薬液の注入の直後が危険だから、五分、一〇分、一五分あたりまでは特に注意しなくてはいけないと強調されていたが、今後は「薬液注入時間を経過してから起こる事故が多いこと」を強調しなければならないと警告している(〈書証番号略〉)。②前掲田中麻酔学会会長の報告によれば脊椎麻酔事故症例を分析し、薬液注入後一〇分以内が六例、一一分から一五分以内が五例、一六分から二〇分が七例、二一分から二五分が五例、二六分から三〇分が六例、三一分後が四例と述べている。以上の症例分析によれば、一〇分以内の事故発生は六例しかなく、一五分以内発生のものまでをも入れても一一例で全体の三分の一であり、二一分以降の発生は一五例と全体の四割五分を占めることになるとし、このことから、「局所麻酔後三〇分以内は特に厳重に監視すること」を警告している(〈書証番号略〉)。

(c 被控訴人のなすべき措置)

被控訴人は、未成年者特に一五才以下の者に脊椎麻酔事故が多発し、かつ、薬液注入後一〇分前後ではなく、一五分あるいは二〇分以降に事故のピークがあるとの前記各自報告があり、未成年者(特に成長期の中高校生)の場合は、麻酔レベルが成人に比し高位に及ぶとの研究が報告されていること及び成長中の患者には薬液量を減らすべきであり、かつ、未成年者には脊椎麻酔をあまり行わないことが警告されていたのであるから、前記報告がされた昭和五八年以降速やかに、テトカインの添付文書中に「未成年者特に一五才以下の患者の場合は、麻酔レベルが高位に及ぶとの報告があるので、脊椎麻酔後三〇分以内は特に厳重に監視すること」との指示警告を記載すべき義務がある。もとより、本件麻酔薬テトカインは、製薬・指定医薬品であるから、医学、薬学上の知識を有する医師により使用されるものであるが、そもそも、医師の専門知識水準は同一でなく、麻酔については必ずしも必要な知識を備えているものではない。したがって、当該薬剤の製造販売会社である被控訴人において前記使用上の注意、警告をなすべき義務を尽くさずして、これをすべて医師の常識であるとして医師のみに責任を求めるべきとし、被控訴人には責任がないとすることは許されない(両者の責任は競合する。)。

3  被控訴人の注意義務違反と本件死亡との因果関係

被控訴人がテトカインの添付文書の麻酔固定時間に関する記載を修正変更し、かつ、テトカインを未成年者に使用する場合の指示、警告並びにテトカイン注入後三〇分以内は特に厳重に監視することの指示、警告をなすべき義務を尽くさなかった場合においては、一五才の少年に高位脊麻(麻酔範囲が高位に及ぶこと)による死亡事故(本件において最初の呼吸停止は、テトカイン注入後二二分に発生したときは、被控訴人が可能な手段を尽くしても、なお、本件死亡事故の発生を防ぎ得なかったであろうという特段の事情が存在することの立証がされない限り、義務違反と結果(死亡)との間に因果関係を認めるべきである。この観点からすると、被控訴人には前記義務(テトカインの麻酔レベルが一〇分前後で固定するという不正確な記載を修正変更し、二〇分以上三〇分であるとし、かつ、未成年者には、脊椎麻酔をあまり行わず、やむなく行う場合であっても、成人に比し麻酔レベルが高位に及ぶので薬液を減らし、かつ、麻酔レベルが固定するのを確認してから手術を開始することを指示、警告すべき義務)があったところ、被控訴人においてこれら義務を尽くしていれば、本件患者誠司の死亡事故(その原因は、手術開始後に麻酔レベルが上昇し、脊椎麻酔の範囲が高位に及びその結果として血圧や呼吸が障害された結果、呼吸困難、低血圧、徐脈、チアノーゼが発症したものである(前記小川証言)。)を回避することが可能であった(本件死亡事故の例は、前記報告中の脊椎麻酔中の事故として報告、警告されている事例に類似する。)。

(被控訴人)

1  前掲控訴人らの主張1のうち、一般論として、テトカインの製造販売をなすに当たって、高度の注意義務があることは認めるが、右義務の具体的な内容、程度については争う。

2の(一)のイの脊椎麻酔における固定時間の重要なことは認める。同ウに掲記されているアームストロングらの報告(〈書証番号略〉)は、麻酔のレベルが最高位に達するまでの時間がテトカイン単独の場合で23.5分プラス・マイナス2.7分で、その平均値は23.5分であったとしているのは、この報告が、麻酔のレベルの固定時間について検討したものではなく、主として麻酔の持続時間を検討したことによるものである。局所麻酔においては、局所麻酔薬の比重と注入直後の患者の姿勢が、脳脊髄液中における局所麻酔薬最高濃度部位を左右し、その最高濃度部位から上下に距離の直線的関数として、脳脊髄液中の麻酔薬濃度が低下していき、一定の脊髄レベル、例えば、T6(第六脳髄)まで局所麻酔が広がると、それ以上は広がらなくなり、局所麻酔の脊髄レベルは、例えばT6レベルとT6より下部の硬膜内部組織に限定され、そこで脊椎麻酔の最高位が固定する。しかる後、局部麻酔薬は、徐々に神経組織内に取り込まれ、順次麻酔薬による神経障害の程度(麻酔の効果の度合)が高まっていくことになる。したがって、脊椎麻酔の脊髄レベル固定時間というのは、局所麻酔薬が注入されてから脳脊髄液内で広がっていき、あるレベルまで達すると、それ以上広がらなくなるまでの時間である。すなわち、局所麻酔が脳脊髄液と等比重となって、患者の体位変化により局所麻酔がこれ以上移動しなくなるまでの時間である。

このように、局所麻酔薬は、脊髄のそれぞれのレベルに達する毎にそのレベルの神経組織内に取り込まれ神経遮断が始まるが、各レベルにおける神経繊維、神経路の総てが遮断されるまでには時間がかかるのであって、固定時間と脊髄の最高レベルにおける総ての神経が遮断されるまでの時間とは同一ではなく、後者の方が遥かに遅れるのである。そして、アームストロングらの測定した時間は、この脊髄の最高レベルにおける総ての神経が遮断されるまでの時間であって、いわゆる固定時間ではない。このことはグリーンの報告(〈書証番号略〉)によっても明らかである。

2の(一)のエの事実(被控訴人がテトカインの添付文書に「麻酔固定時間は一〇分前後」と記載したこと)は認める。右記載事項に誤りはない。ちなみに、右添付文書には、右固定時間に関する記載事項のほか、その1項には、「使用上の注意」として、一般的注意事項の項で、1、2のア、イ、エ、オ、カに記載された事項により、注意を喚起しており、「救急処置の準備」、「事前の静脈の確保」、「患者の脳脊髄液の比重の変動」その他具体的な警告、指示をしている。

また、2項の「副作用」の項でも、ショック、中枢神経に与える影響、これらに対する適切な処置等につき記載し、慎重な取扱いが必要であることを強調し、かつ、具体的な処置を指示している。

したがって、被控訴人のテトカインの添付文書には、控訴人ら主張のような記載の不備はない。2一のオについては否認する。

2  同2の(二)中、a及びbに掲記の各報告があることは認める。cは否認する。控訴人らが掲記する報告例は、いずれも、脊椎麻酔一般についていわれているものであって、テトカインに固有の症例ではない。テトカインの添付文書は、脊椎麻酔の教科書ではないのであるから、これらの報告例を殊更に取り上げて警告するのは適切でない。テトカインの添付文書としては、テトカインによる脊椎麻酔の際に予想される危険を警告し、それに対する措置を指示することをもって足るというべきである。同添付文書における記載事項は前記のとおりであって、記載は必要かつ十分といえるものであり、控訴人主張のような不適切、不備なものではない。

なお、控訴人らは、テトカインの固定時間が従前の一〇分から二〇分ないし三〇分に修正変更されたというが、テトカインの脊髄レベル固定時間については、殆どの報告が一〇分前後としているのであるから、添付文書中に固定時間を「一〇分前後」と記載しても誤りではないのである。なお、見解が分かれ定着していないのであれば、他の既刊の論文、報告等が修正変更されていないことでもあり、いま直ちに、被控訴人の商品であるテトカインの添付文書の使用上の注意事項の記載を変更修正する要をみない。

3  同3の被控訴人の注意義務違反並びにこれと本件患者の死との間の因果関係の存在については、いずれも否認する。テトカインの固定時間が二〇分以上三〇分とする新たな知見が報告されたものではないから、テトカインの添付文書の記載を修正変更する必要はない。被控訴人は、前記のとおりテトカインの添付文書に観察を十分に行うことなど必要にして十分な警告、指示を記載しているのであるから、被控訴人には義務違反はない。また、本件手術においては、専門の麻酔医が脊椎麻酔術を担当していながら、テトカイン注入後五分を経過した時点で一回だけ麻酔レベルをチェックしたのみで、漫然とその五分後に執刀が開始されているから、当然患者はその執刀の前にすでに手術位をとらされ、消毒等がされたことになる。したがって、早目に手術の体位となったことにより、麻酔レベルが上昇することになった可能性が極めて大きい。もとより、被控訴人の添付文書の記載に不備のないことは前述のとおりであるが、本件のように、麻酔専門医として最も基本的な注意すら欠いている状況にあっては、右添付文書にどのような記載をしたとしても、その効果は疑わしい。

よって、本件患者の死亡と被控訴人の添付文書上の記載との問になんらの因果関係もないものというべきである。

三  証拠関係〈省略〉

理由

一当裁判所は、被控訴人の製造販売にかかるテトカインの添付文書の記載事項は、既に同文書に記載されている内容、程度のもので足り、これを超えて控訴人ら主張のような各事項の追加、修正、変更の記載をすべき注意義務があるとまではいえず、また、テトカイン投与による本件手術における死亡事故が、同添付文書の記載が控訴人ら指摘のような不実、不備なものであったことによって生じたものともいえず、結局、控訴人らの本訴請求は、いずれも理由がないものと判断するが、その理由は、以下に補足するほかは、原判決理由説示と同じであるから、これを引用する。

二ところで、被控訴人は、麻酔薬であるテトカインの製造販売業者として、控訴人ら主張のような麻酔事故を回避させるため可能な限りの措置を講ずる一般的な注意義務があることはいうまでもない。しかし、手術対象患者に対する麻酔専門医によるテトカイン注入とその後に執刀担当専門医による手術が開始されたという本件の場合において、使用麻酔薬の製造販売業者たる被控訴人に必要とされる具体的注意義務の内容、程度いかんが検討されなければならない。そこで、進んで控訴人らが具体的に指摘する事項についての注意義務につき検討する。

1  控訴人らは、被控訴人のテトカインの添付文書中の記載事項に不備があるとする主たる理由は、麻酔固定時間につきこれまでの記載事項では「一〇分前後」とされているのを、最新の情報、知見に基づき「二〇分ないし三〇分」と修正変更するべき義務があるのに、これを怠ったことであると主張する。

(一)  〈書証番号略〉(テトカインの添付文書)中の麻酔固定時間の項をみると、「一〇分前後」と記載されていることが明らかである。そして、控訴人が指摘するアームストロングらの報告(〈書証番号略〉)には、麻酔レベルが最高位に達するまでの時間として23.5プラス・マイナス2.7分、平均23.5分との報告があり、原審における小川鑑定(これにより引用、推論されているグリーンの報告(〈書証番号略〉))では麻酔範囲が固定するまで三〇分以上必要とされることが、また、当審における証人小川龍の証言によれば、テトカインの麻酔範囲は二〇分から三〇分と考えるのが一応の定説である旨述べられている。しかしながら、①右アームストロングらの報告及びグリーンの報告は、小川証言によっても、テトカインの持続時間に関する検査研究が主たる命題であって、同報告中でも医師がテトカインを施術された後患者の体位変換を三〇分より早い時間に行っているのではないかと推察できる部分もあり、いずれにせよ、それら報告が麻酔固定時間を確定することを主眼としてた検査・研究ではないことは、右各報告書を一読すれば分かる。これに対し、〈書証番号略〉等の報告文献は、テトカインの麻酔固定時間を検査報告しているものであるが、これらには、一〇分以内、一〇分以上、一〇分から一五分、一〇分から二〇分以内といった結果報告の記事が多々見受けられるのである。そして、〈書証番号略〉及び小川証言によっても、テトカイン注入後の患者の監視及び管理が極めて重要であり、麻酔レベルのチェックを十分に行い、その麻酔効果発生と麻酔範囲の上昇状況をチェックして患者の状態を監視しつつ、麻酔固定の状態に達し手術開始のための体位変換が可能な状態に至っているかを判断しなければならないことは、麻酔専門医が当然に基本的に守るべき事柄であるとされており、いわば、このようなことは、麻酔専門医の常識であるといってよい(前掲小川証言)。

(二)  もっとも、控訴人らは、大学病院や国公立病院勤務医を除く一般外科臨床医の麻酔に関する専門知識が必ずしも高度なものでないから、麻酔薬の添付文書の記載を読んで、右記事のとおり麻酔術を行うはずであるという。しかし、テトカインは、劇薬で指定医薬品であり、患老に注入して手術を行う際には、当然その取扱につき高度な薬学・医学上の専門知識があることが必要とされるはずであり、専ら、添付文書の記載事項だけに依存して当該麻酔薬を選定し、かつ、麻酔液注入量を決め、また、右注入後の患者の反応効果等その症状を監視、管理するといったことまでを前提として作成された文書ではない。医者のレベルダウンを前提にして、投与する薬剤の添付文書中の使用上の指示説明をより詳しく具体的に記載し、かつ、それだけで判断できるように記載する必要があるというのでは本末転倒である。もとより全国的に通常の医学レベル水準の専門医の育成、研鑚は怠りなくされてしかるべきである。医師のレベルが通常の水準である限り、劇薬で指定医薬品であるテトカインの添付文書中の記載は、専門的知識のある医師により読まれ理解されうる程度に記載されていればよいはずである。事実、国内外の薬事ないし医事関係の雑誌、報告書等には、麻酔薬の作用効果、使用における管理、適切処置等について報告書論文等が登載され、医学会でも研究され報告されているのであり、このことは、控訴人ら及び被控訴人から提出されている報告書、論文等の各書証によっても明らかである。

(三)  そして、被控訴人の添付文書においては、前記の事項だけで事を決されるのではないのであって、その他多々使用上の注意事項の記載がみられるのであり、使用者が添付文書の記事を読んで、これら諸事項を総合的に併せみて、かつ、使用者の知識、、理解を基礎として、その者にテトカインの使用上の注意を理解できるように記述されているのである。すなわち、まず、「取扱い上の注意」の項では規制区分として、「本剤は、劇薬、指定医薬品である。」と記載されており、このようなテトカインを使用できるのは、医学及び薬学上の専門知識を有する医師でなければならないと特記されているのである。そうすると、右添付文書を読むこれら医師が理解し判断しうる範囲でテトカインの使用上の注意事項が記載されていれば足り、一般人が使用する市販の飲薬の服用の仕方等に関する使用上の注意事項のように指示・説明を同添付文書の中で具体的に逐次記述されていなければならないとか、右記載事項によって得た知識、情報のみによって医師が劇薬であり指定薬品である薬剤の使用上の知見を取得すれば足りるとは到底いえないはずであり、それらによる知見をも含めて、なお、高度な医学、薬学上の専門的知見をもって、しかも患者各人の個人差をも考慮して、その使用の方法時期分量等を決定判断されてしかるべきであって、そこには、医師の広範かつ高度な専門知識の存在が当然の前提とされている。それ故、同添付文書中には、後掲のような記載事項が網羅的にされているうえ、最後の箇所には、テトカインに関する「主要文献」が逐次掲記され、かつ、右「文献の請求先」をも明らかにしている記載がみられることからしても、右添付文書の指示説明の記載事項だけで専門医がその使用に当たってテトカインを理解、判断することができて、これのみによりテトカインの施術に際して総て網羅し充分であるとしてはいないものと推察できる。

(四)  さらに、前記〈書証番号略〉の添付文書中に記載の使用上の注意事項にしても、前記のテトカインの固定時間に関する事項が記載されている「薬効薬理」の項には、「本剤による脊椎麻酔時に作用時間を測定した結果、効果発生時期は三〜五分、麻酔固定時間は一〇分前後、麻酔持続時間は約1.5時間(エピネフリンの添加により約五〇パーセント延長)であった。」と記載されているが、同文書中の他項にも、麻酔剤であるテトカインにつき、一般的ないし具体的な使用上の注意を喚起し、救急の処置の準備、事前の静脈の確保、患者の脳脊髄液の比重の変動その他具体的な警告、指示しており、副作用に関しても、その症状とその発生に対応する適切な処置をも指示する記載がみられ、総じて、テトカインの慎重な取扱いが必要である趣旨の諸々の事項の記載が多々見受けられるのである。例えば、1項の一般的注意事項として、「1 まれにショック様症状を起こすことがあるので、局所麻酔剤の使用に際しては、常時、直ちに救護処置のとれる準備が望ましい。」「2 本剤の投与に際し、その副作用を完全に防止する方法はないが、ショック様症状をできるだけ避けるために、次の諸点に留意すること。ア、患者の全身状態の観察を十分行うこと。イ、ショック様症状がみられた際に迅速な措置が行えるように、原則として事前の静脈の確保が望ましい。ウ、胸部以上の部位の手術に用いる必要がある場合には、慎重に投与すること。エ、本剤の比重は一定に調整されているが、患者の脳脊髄液の比重にかなりの変動があることに留意すること。オ、できるだけ薄い濃度のものを使用すること。カ、できるだけ必要最少量にとどめること。」といった投与する医師対象に専門的な注意、処置等についての事項が掲記されており、また、6項の「副作用」の項では、「1 循環器、ショック様症状を起こすことがあるので、視察を十分に行い血圧降下、顔面蒼白、脈拍の異常、呼吸抑制等の症状があらわれた場合には、直ちに人工呼吸、酸素吸入、輸液、炭酸ナトリウム・昇圧剤の投与、適切な体位等の処置を行うこと。2省略。3 循環系、中枢神経系 ア 次のようなショック様症状(硬膜外麻酔時)あるいは中毒症状を起こすことがあるので、観察を十分に行い、次のような処置を行うこと。(ア)省略。(イ)振戦、痙れん等の症状があらわれた場合には、人工呼吸、酸素吸入等の処置とともにジアゼパム又は超短時作用型バルビツール酸製剤(チオペンタールナトリウム等)の投与等。イ 眠気、不安、興奮、霧視、嘔吐等があらわれることがあるので、上記のような全身症状への移行に注意し、必要に応じて同様な処置を行うこと。」といった各事項が掲記されており、また、「用法及び用量」の項では、その用法により一定幅の数量をもって「通常成人使用量」として原則的に掲記したうえ、但書で「年齢、麻酔領域、部位、症状、組織、体質により適宜加減する。」との記載も見受けられる。

(五)  もっとも、先にみたように、被控訴人の添付文書中の「薬効薬理」の項には控訴人が指摘するとおり、「麻酔固定時間は一〇分前後」と記載されている。しかし、まず、この「一〇分前後」というのは、ある程度時間的な幅をもたせた表現であるから、特定の時点を固定時と決定するためには、当然、テトカイン投与後の専門家たる医師の適切な患者管理のもとにおける麻酔範囲のチェックによる判断が必要とされることを前提とした記載であるものと推察できる。

(六) 以上一般的にみた限りでは、総じて、被控訴人の添付文書中の記載は、使用者が医学、薬学上の専門家に限られることを前提とし、かつ、各条項の記載を総合的にみる限り、専門家が間違うほどの不実記載があると断じることは困難であるというほかない(これを確証するに足るだけの証拠がない。)。

2  被控訴人は、本件手術における患者誠司の死亡と被控訴人の添付文書の記載との間に因果関係がないと争うので、この点についても以下で検討しておく。

(一)  前示争いない事実により本件手術の経緯をみると、本件手術当日である昭和六二年六月一八日、薬丸病院で林忠男医師の診断で急性虫垂炎の診断を受けた本件患者誠司の本件手術の経緯をみると、同人が①病院の手術室に入ったのは午後四時四五分、②術前昇圧剤メキサン一〇グラムの投与を受けたのは午後四時五〇分、③麻酔担当医(〈書証番号略〉によれば麻酔担当医は田村京子医師)により脊椎麻酔が開始され、テトカインが注入(ただし、投与量については争いがあるが、薬丸病院の麻薬記録によれば投与量は一五ミリグラムと認められ、これに反する証拠はない。)されたのは午後四時五三分、④麻酔医による麻酔範囲高(麻酔領域レベルの上限)のチェックがされ、同医師により右レベルがT8(第八胸髄)と判定されたのは午後四時五八分、⑤患者誠司の不安抑制、鎮静のためにロヒプノールが一ミリグラム静脈内投与されたのは午後五時〇〇分、⑥林医師に執刀による手術開始は午後五時〇三分、⑦同手術終了は午後五時一五分であり、患者誠司が呼吸困難を訴えたのは右手術終了と同時であったことが明らかである。

(二)  そうすると、本件手術の場合は、テトカイン投与後五分経過した時点で一回、麻酔担当医により麻酔範囲のチェックがされただけであり、さらに、右チェックから二分経過後にロヒプノールを投与しており、その三分後には執刀担当医による執刀が始められている。このようにテトカイン投与後一〇分経過した時点で執刀開始というのであれば、当然その前に患者誠司の体位を変換して手術位にしているのであろうから、その時間を見込めば、被控訴人の添付文書記載の固定時間に比してもやや早目の手術開始であったことは否めない。また、小川鑑定によれば、脊椎麻酔施行後七分後に投与されたロヒプノール(麻酔導入薬、局所麻酔時の鎮静薬)一ミリグラムの患者への投与は、患者に強い鎮静か入眠をもたらしたと考えられ、かかる鎮静薬は患者の恐怖感、不快感などを取り除くが、患者の異変(気分の変調、呼吸困難)の訴えなども抑えるので、脊椎麻酔の際に鎮静薬をも投与した場合には、患者の状態の観察は一層密でなければならないとし、これが脊椎麻酔による呼吸抑制を助長した可能性を否定できないと指摘している。本件手術においては、麻酔範囲のチェックは投与から五分経過時点の一回かぎりであった。もっとも、小川鑑定によれば、右チェックした四時五八分以後は患者の皮膚の消毒をし、被布で術野を覆うので麻酔範囲は確認できないというが、それでは、その三分後に前記鎮静剤をも投与しているのに患者の観察を継続せず、皮膚を消毒したうえ執刀開始したことになる。また、前掲原審における小川鑑定並びに当審における小川証言によれば、本件患者誠司の死亡の原因は、患者誠司の脊椎麻酔の範囲が高位に及び、その結果として血圧や呼吸が障害された結果、呼吸困難、低血圧、徐脈、チアノーゼが発症したことにあると認められ、また、前記ロヒプノールの投与が呼吸抑制を助長した可能性も認められる。

(三) 以上にみた本件手術の経緯・状況に照らせば、本件患者誠司の死亡は被控訴人のテトカインの添付文書中の固定時間の記載その他の記載事項に不備があったことによって、担当医らがこれを読んで判断を誤ったが故に生じたものと認めることは困難である。したがって、その間の因果関係を肯定することはできない。なお、控訴人の主張によっても、控訴人らは、被控訴人を相手としての本件訴えを提起する前に、薬丸病院から見舞金名目で三〇〇〇万円もの金員の支払を受け両者間で示談したうえ、残損害金のうちの一部請求であるとして、薬品製造販売会社である被控訴人に対して本件訴えを提起してきたというのであるから、このような事故発生以後本訴提起に至った経緯に照らしても、当初、控訴人らは、損害賠償請求の相手、すなわち責任主体を本件手術担当の医師らないし雇用主である病院を主眼としていたものであることが窺われるのである。

3  さらに、控訴人らは、未成年にテトカインを使用する場合の指示、警告をすべきであったのに、これを怠った被控訴人の義務違反があり、これと本事件死亡事故との間に因果関係がある旨主張する。

(一)  なるほど、一五歳未満の患者の麻酔事故が多く発生していることは前掲報告文献により明らかであり、麻酔医の間ではこの事態は承知されており、麻酔薬の使用に当たっても、投与量、密なる観察、患者管理、特に、麻酔レベルのチェックが重要で、総じて、成人に比して慎重に観察、処置する必要があることは専門医にとって常識とされているものであって、このことは、前掲小川鑑定によってもその他前掲文献報告によっても明らかなことである。そして、同鑑定によれば、本件患者誠司の年令、性別、身長、体重からして、本件担当医の投与したテトカインの用量(一五ミリグラム)は不適切なものとはいえない。未成年者に局所麻酔薬投与を絶対的に禁じるべきとの見解、実施報告等が出されてはいない。

(二)  そして、本件手術の場合にあっても、未成年である患者誠司に脊椎麻酔を施術することや使用麻酔薬にテトカインを選定しその投与用量、手術開始時等を決定したのは、すべて本件手術担当医と麻酔医の専門的知見に基づく判断によるものである。

もっとも被控訴人の添付文書中には未成年の使用上の注意を成人と併記して具体的には指示説明されていないが、それでも、通常の投与量として記載する用法及び用量等は成人を基準としたものであることを明記したうえ、特に、但書において、患者の年令差その他を考慮した用法、用量であるべきことをも断っていることは、前記の記載事項により明らかである。この点に関する控訴人らの主張は、未成年患者に対する脊椎麻酔施行にあたって注意すべき一般論としては、そのとおりであるとしても、未成年に対する取扱いを慎重にすべきことは医師の知見として承知されている事柄であって、特に、テトカインの添付文書中に具体的な記載が少ないとしても、こと本件手術においては、未成年に関する注意事項の記載欠如により医師が判断を誤ったとは認められず、このことにより、本件死亡事故が発生したものとも考え難い。実際にも、本件全証拠を精査するも、その間の因果関係を肯認することはできない。

三以上の次第であり、控訴人らの本訴請求をいずれも棄却した原判決は相当であるから、本件控訴は理由がないから、いずれも棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五、九三条一項本文、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官宍戸達德 裁判官伊藤瑩子 裁判官福島節男)

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